ととととライブ 私たちの好きな短歌と音楽クロストーク要旨

 

【岡野大嗣 安福望 柳本々々(ナビゲーター)】

※画像資料は柳本々々のスライド資料から

 

『サイレンと犀』と『食器と食パンとペン』にあるさまざまな「と」。その「と」の力学について考えてみたい。言葉のプロである岡野大嗣と絵のプロである安福望とをつなぐ「と」についてまずは両者が好きな漫画から通底するものを探りたい。

 

岡野が好きな漫画として挙げたのは新井英樹『The World Is Mine』(小学館1997)。この漫画では徹底的な暴力性が描かれる。常に暴力性によって煽られる状態で物語が展開する。人がただの〈肉〉としてぎりぎりに扱われている世界なのも特徴的である。岡野の歌集にもテーマとしてのバイオレンスを見ることができる。

 

 

近づけば踏み潰す気で見ていたら鳩は僕との距離を保った

 

ビニールにマジック書きで「豚」とあり直に書いてあるようにも見えた

 

銃口の闇に焦がれて極東の ENEOS で引く給油トリガー

 

『The World Is Mine』ではバイオレンスの中で時間のテロップが挿入され、時間軸が移動し、交錯していく。つまり、バイオレンスというアナログな風景を、デジタルな時間軸が〈編集〉として関わる。この漫画のキーワードはある意味、挿入の言葉で、巨大怪獣事件と併行したテロ事件を同期させつつ〈編集〉する神の視点である。またパソコン(チャット)も冒頭に大きな役割として登場する。デジタルメディアがキャラクターの内面を投影する装置になっており、またキャラクターへの神の(ような)啓示がパソコンからくる。このような編集加工して捉える視点が岡野の歌集にも見られる。

 

 

ジーザスがチャプター2まで巻き戻し平時を取り戻す5番街

 

This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る

 

入口から出るおじさんを微速度の産卵シーン見るように見る

 

 

安福が好きな漫画として挙げたのは白土三平『シートン動物記①灰色熊の伝記』(小学館文庫1999)である。安福の絵にも熊が多く登場し、この漫画から安福の動物観・自然観を探ることができるのではないか。この漫画は劇画タッチで熊の生態が描かれるところに特徴がある。死も劇的に描かれる。記号的・漫画的にではなく、小熊でさえ撃たれ傷つき血を流し痙攣して身体が弱って死ぬというリアリズムである。漫画の記号の処理や、傷つかない漫画の肉体ではなく、撃たれれば血が流れ、苦しむ肉体が描かれている。

熊は安福の絵にもしばしば現れるが、人に比して巨大なサイズで描かれており、キャラクターとしてデフォルメされていない。この熊が襲おうとする時、その人は死ぬだろう。安福のリアリズムであり、安福の絵にもまたバイオレンスの内包を感じ取ることができる。その観点で安福の絵を見ると、やわらかいタッチでありながら、暴力や死といったテーマを扱っていることが分かり、それが絵の深みになっているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

さて、岡野大嗣(80年生)、安福望(81年生)、柳本々々(82年生)は同世代である。世代という観点からも両者の短歌と絵に迫れるのではないか。子供の頃に触れていたカルチャーを糸口に考えてみたい。

岡野が挙げたのは「ビックリマン」と「ミニ4駆」であったが、それらは商品を買うことが、大きな物語に参加するということにつながっていた時代を象徴するアイテムである。物語消費の世界である。大塚英志によれば、80年代終わりから、サブカルチャーに「物語消費」の時代が到来したという。つまり岡野の少年時代は物語共同体が流行していた時代でもあった。そして同時期の「物語消費」の一例として「シルバニアファミリー」が挙げられるのだが、「シルバニアファミリー」に触れる少女時代を過ごしたのが安福であった。

 

「物語消費」を踏まえて岡野の短歌に立ちかえると、岡野は、物語として安易に消費されない「一」を描こうとしているように思える。

 

ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた

 

マーガレットとマーガレットに似た白い花をあるだけ全部ください

 

母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように

 

岡野の短歌における「と」は消費できないような「と」をつくりだす動きとしてあるのかもしれない。物語として一括されそうな時に、小さなわたしの物語として絶えず「と」を打ち出して、大きな物語に抵抗していく力である。「見なければ、考えなければ、どうってことなく過ぎていくものばかりである。しかし、書かずにはいられない」という東直子による解説の言葉は岡野の短歌の本質を突くものと言えるだろう。

 

安福の絵に関しては「雨」の描写を取り上げたい。安福の描く雨は一般的にイメージされる「斜線」ではなく一滴一滴の水の粒として描かれる。一つ一つきっちりと描かれた水の粒は「多」として背景や世界観を構成するが、一方で、どれかひとつを任意で抜き出したとしても「一」として世界観を維持することができる。「省略の不在」とも言えるこの雨の描き方は安福望の発明と言ってもいいかもしれない。そしてこれは岡野の短歌の「と」に通じる世界観でもある。

 

 

 

 

 

短歌や絵は、定型や一枚の紙という枠組みの中で、何度も何度もコンセプトを変えながら、…と…と…と…と、と何首も何枚も表現していくものだ。だから短歌や絵は、世界はこうでなければならないという大きな物語に対抗する「このわたしの小さな物語」という大事な役割を持っているように思う。その意味において、岡野の短歌と安福の絵は、世界にはまだこんな伸びしろや奥行きや救いがあるという「世界とX」という「と」の表現力を有しているのである。

 

ジャンクションの弧線が光る ささやかな意志の前途を讃えるように

 

「と」はこの短歌では「途」として現れる。それは安福の絵でたびたび描かれる、小さな「一」がそれぞれに、しかし同じ方向として見る「前途」でもあるのだ。

 

 

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